×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
(追想)
(ふゆのよあけ)
(ふゆのよあけ)
毛布を頭から被り膝を抱える様にして聖書に読み耽っていると、夜明けを近いことを指し示す鐘五つが聞こえた。
隣のベッドで寝ているのか起きているのか判ぜぬ様態で本に埋もれる様にして寝転がっていた師父はふと口を開き、少女に背を向けたまま
「夜明けを見に行くか」
唐突に言った。
梅の蕾は仄かに色づき綻び始めているとは言え、早春の夜気は上着越しにもつめたい。
師父は体温の高い人では決してなかったから(真夏に触れて尚その骨張ったゆびさきは雪を想起させた)背負われようが温もりは欠片も感じなかった。それを少女は寂しいとは思わなかったし、寧ろ存外に広かった痩せた背に安心感を覚えたりもした。あまり彼は背負ってはくれないけれど、そうされるのが少女は好きだった。
普段の倍近く低い位置を雪と霜に覆われた地面が通り過ぎてゆく。微かに聞こえる雪を踏む足音ひとり分のみが今この世界を支配する唯一の音だ。
振り落とされない様にしがみつきながらも首だけで振り返ると、師父の吐く紫煙と己の吐く白息が混じり、石畳の街並みの上、夜朝の境界特有の紫の空気の中に流れて霧散するのが見えた。
裏道小径を抜け塀を飛び越え、誰も使わなくなった橋を渡り、城壁の上、見張りの兵達にのみ許された通路を大股で進み、彼は野のけもののように奔放に黙々と何処かへと向かっている。
日常の喧噪が嘘のように街には人ひとり見当たらなかった。番兵達にも嘘の様に出会さなかった。出会さずに通り抜けられる道を師父は知っているらしかった。
空はいよいよ闇の名残濃藍を和らげ穏やかな青みを帯び、地平線を白く切り抜く歪な岩山の尾根の辺りに至っては煌々と白み始めている。あの周辺が金色の光で染まりきるのも最早時間の問題と思えた。
師父の肩越しにひとつの巨きな影が近づきだし、少女は初めて彼が何処に向かおうとしているのかに気付いた。
この街の時計塔だった。
着地地点と方向を誤った石造りの箱船の裏手にはその巨体に似付かわしくない控えめな木の扉が付いており、門番のひとりも居らず、只鍵は一応付いているらしかった。
扉の前で師父が立ち止まった。彼女が肩越しに身を起こすと、彼は手元で針金の様なものを鍵穴に突っ込み何やら如何しげなことをしている様に見えた。
「宜しいのですか師父。此処は一般の民は立ち入り禁止になっていた筈ですよ」
「問題ない。平和呆けと見まごう程心優しい上層の民のことだ。我々の些細な悪戯等目を瞑ってくれるだろうよ」
税は確り納めている、些細な幸福を享受しようが市民として何の問題もあるまいよ血が流れるわけでも無いし。
淡々とそう言うと師父は用済みの脆い扉を足取りも軽快に潜り抜けた。
とんだメフィストフェレスもあったものだ。
その背で少女はゆっくりと小首を傾げたが、反応は返ってこなかったし彼女自身もそれを予想していたので、憂いの息を聞こえよがしに吐いて一層師父にの首元にしがみつくことにした。師父は触れられること全般を厭うたが、特に首に触れられるのが嫌いだった。尤も今回は堪えているのか矢張り何の反応も無かったが。
時計塔の中は仄暗く、一定のリズムを保ち断続的に響く低い唸りに満ちていた。機械音だ。
所々に開けられた窓からは薄く光が差し込み、空気の循環が少ない為塔内に湧き上がり件の音に揺らされる幾許かの塵芥すらも、その光を受けてきらきらと尊いものであるかの様に輝いて見えた。
古びて青みを帯びた巨大な歯車達の立てる鈍いうねりはこの塔の心音であり、臓器の蠢く音だ。
この塔が未だその本来の役目を務めている証だった。
その外周に添える様に作られた螺旋階段を師父はリズミカルに登っていく。
外ではよく響いたであろうその音は今や機構達の力強い生音に圧倒され、毛細血管の脈動程度にしか感じられない。彼の足音は最早この巨大な生物の僅かな一部だった。
これは箱船ではない。地に刺さった鯨だ。
少女はそう確信した。
また此処に入れたことを不謹慎ながらも心中密やかに感謝せずにはいられなかった。ひとりでこの圧倒的な機械の生を目の当たりにすることはなかっただろうから。
屋上へと躍り出たふたりを迎え入れたのは、今まさに山々のベッドより身を起こさんと柔らかく広がり出した暁光だった。
天は金色より東雲色、仄蒼、暁鼠そして瑠璃色に至る恢々たるあえかな光の染め物に覆われつつある。暁光のひだがその上を揺蕩い、豪奢なドレスに転調を添える金剛石の飾りにも似た明星がひとつ、まだ闇の余韻を残す中に浮かんでいた。
真後ろで歯車仕掛けの鐘が、西の空に未だしがみつく夜気を吹き飛ばすような轟音を六つ響かせた。
雪に包まれた稜線は金色の光を方々へと照らし返し、人里まで目覚めの光を運び届け、落穂を啄む白鳥達の影かたちすらもひとつひとつ浮き上がらせていた。
地へと降ろされた少女が西の空を振り返ると、夜の天蓋が星々の飾りごと巻き上げられ東の空へとしまわれてゆくところだった。
夜の間鮮やかにその色を誇っていたであろう宵闇は暁光に濁り、酷く小さくなって見えた。少女は何故かそこから目が離せなかった。サーカスの終わりにも似た閑かなさみしさが、そこには確かにあった。
「折角朝焼けを見せてやろうと言うのに、お前がそちらばかり見ていては空が焼き餅を焼くぞ」
自身のそれより幾周りも大きな手が、粗雑に頭に載せられるのが判った。
「そんなに夜が好きか」
「はい」
「お前の色だものな」
師父の口ぶりはいつも通り淡々としつつも、何処か可笑しげに響いた。振り返りそっと見上げる。巌の如きその面には相変わらず然したる表情は読み取れなかった。が、その目は確かに状況を面白がっている人間の底意地の悪いそれだ。
「境界線に於いては何時だってそんなものだ。云う程変化を望む奴もそうそう居まい」
骨張った手が自身のポケットに伸びる。手探りで紙巻煙草を引っ張り出した。
「先日、禁煙なさると仰ってませんでしたか」
「俺ァ今更変化を望む気はなーいーの。そういうのはお前等若人の仕事だ」
「己が若くないと認めた瞬間から老いは襲い来るとも、師父ご自身が仰っていた様に思われます」
「そもそも俺は老いはしない。老いも変化のひとつだ。変化自体が俺のうちには既に無い」
故に嘘も平気で吐いてみせよう、と。
師父は白く燻る煙草を指先に摘み、美味そうに紫煙を吐く。
「お前がほんとうに望めば夜ですら変化を已め、お前の傍らに在り続けるものだよ」
「それはお得意の嘘ですか」
「残念ながら大衆が存外に気付かぬ事実だよ。だが嘘で良い。そう思え。レトリックの罠かも知れんしな。そもそも夜は過ぎゆくものであった方が大抵の人間には都合がよいから、常に流転するものだと思われているんだ。お前が望むようにしか世界は映らない。絶対客観など有り得ない」
だからもし今お前の目にこの朝焼けが映っているとしたら、それはお前が望んだからだ。お前が望んだからこそこの朝が見えているのだ。
そう呟く師父のざらざらした声は少女の耳の中で鐘の音の余韻と溶け合って、西の空に忘れ去られてゆく昨日の闇の名残と共に、この景色の一部となっていった。
少女の頭を撫でる彼のゆびさきは矢張り酷くつめたかった。
明星がまもなく暁光に霞む時分の頃であった。
PR
この記事にコメントする